小田原という土地で

小田原という土地で

小田原とは

小田原

シンボル神奈川県南西部の市。
先史時代から文化の融合する地域で、中京と関東の文化の接点です。
戦国時代は北条氏、江戸時代は大久保氏の城下町として栄えてきました。
また、東海道の旧宿場町で、箱根の東方の出入り口にあたる要所で、箱根観光の基地となっています。
商工業が発達し、梅干し・かまぼこを特産品です。
国から特例市に指定されています。

<基本データ>

人 口:
約20万人
面 積:
114.09㎢
市の花:
観 光:
小田原城
特産品:
かまぼこ

観光 -名城小田原城址公園-

小田原城址公園

名城小田原城址公園(おだわらじょうしこうえん)は、小田原市街地にある公園です。

小田原城は、今から五百年以上前の十五世紀後半、西相模一帯を支配していた大森氏の時代に、天下の険の箱根を控えました。

明応四年(1495)、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が大森氏を攻め、小田原城を手に入れました。

天正十八年 (1590)、豊臣秀吉と対峙した小田原合戦の時点では、周囲の山の中腹や海岸線などに、総延長九キロメートルに及ぶ土塁や空堀を巡らし、町屋や農地まで も城下に取り込んだ壮大な城構(総構)が築かれ、日本最大の中世城郭に発展しました。この時代に造られた土塁や空堀は現在でも、鉄道を挟んだ西側の丘陵地 や、市内の各所に残されており、天守閣裏手の遊園地付近でも観察することができます。

江戸時代の小田原城は、江戸城の西の守りとして重視され、徳川氏の重臣である大久保氏や稲葉氏が城主となり、北条氏時代の巨城を「お留山」等によりその まま管理しながら、現在の本丸や二の丸、その周辺の三の丸の一帯が近世城郭に改造され、高い石垣や白亜の城壁を持つ姿に生まれ変わりました。この工事は、 主に、寛永九年(1632)から貞享二年(1685)まで城主であった稲葉氏の時代に、幕府からの援助を受けて行われました。それ以後、江戸時代初期に城 主であった大久保氏が再び城主になりましたが、この時期に整えられた小田原城が、震災による建替えや修復を繰り返しながら、幕末まで引き継がれました。

1870(明治3)年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も関東大震災によりことごとく崩れ落ちました。しかし、1960(昭和35年) に天守閣が鉄筋コンクリートで外観復元、また1970(昭和45)年に常盤木門を木造で復元。さらに、1997(平成9)年に銅門も復元されるなど、往時 の姿を取り戻すべく整備が続けられています。

公園内には、小田原城歴史見聞館、小田原城ミューゼ(美術館)、動物園、遊園地、小田原市立図書館、小田原市郷土文化館などの観光施設があり、いつも観光客で賑わっています。

このページの先頭に戻る